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Channel: 「皇室問題INDEX」設立準備室
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■一般庶民の目で綴る「平成皇室実録」(1):平成の始まりから愛子さまご誕生まで

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平成皇室の出来事を時系列でまとめた年表を作成し、送ってくださった方がいます。それをベースに、さらに詳細な情報を付け加え、一般庶民の目から見た「平成皇室実録」を作成できないでしょうか。まずは、平成の始まりから愛子さまご誕生までを書き出してみました。
文末につけた(★)印は、ソース(情報の出所を示す資料詳細)を調査して付け加えたいという印です。そのソース調査も含め、この年表への追加情報をお寄せいただければ助かります。学者ではなく、一般庶民の目に映った「平成皇室実録」作成を目指しましょう。

■1988年(昭和63年)
 02月   礼宮さま 教授令嬢とのデート親密度 3時間も2人きりで…(『週刊現代』03月05日号)

■1989年(昭和64年)
01月07日 昭和天皇崩御。
02月24日 大喪の礼。

 04月   礼宮が皇籍離脱発言(『週刊ポスト』1989年4月7日号)
 04月   渦中の女 「浩宮妃」より先に「礼宮の恋人」(『FOCUS』1989年5月5・12日号)
 05月   スクープ 礼宮さまが学習院大教授令嬢と婚約へ(『FLASH』1989年5月9・16日号)
 08月   反対だらけだった礼宮の結婚(『女性自身』1989年09月06日号) 
 08月   礼宮「ご婚約発表」のあと 平民化に拍車がかかる「新皇室像」
               皇籍「離脱」で抵抗した成果(『週刊新潮』1989年09月07日号)
 09月   礼宮婚約スクープの裏!決め手は両親の赤坂御所訪問だった(『週刊宝石』1989年9月14日号)
 09月   ご婚約“突如内定”なぜ急がれたのか(『週刊現代』1989年09月16日号)
 09月   プリンセスを生んだ川嶋家の「血族と財産」(『週刊ポスト』1989年09月15日号)

09月12日 文仁親王(礼宮)と川嶋紀子さんの婚約内定、記者会見が行われた。

 昭和天皇の喪が明けないうちに婚約が発表される事態となったのはなぜか? 礼宮との交際中に紀子さんは堕胎手術を受けること2回に及び、これに抗議して実父の川嶋辰彦氏が東宮御所に乗り込んだ。川嶋氏と親交があった朝日新聞(岩井克己記者)と部落解放同盟の力を背景に、結婚の約束を取り付けたとする見方がある(★)。

■1990年(平成2年)
06月29日 文仁親王(25歳)と川嶋紀子さん(23歳)結婚の儀。秋篠宮家創設。
 09月     礼宮結婚フィーバー 日本はこれでいいのか!「奉祝押しつけ」の大騒ぎ報道を排す
         沸騰皇室核心論議 右と左と知識人のミカドの肖像(『週刊ポスト』1990年09月13日号)

 「秋篠宮家に万が一にも皇位が継承されることがあってはならない」という暗黙の了解が宮内庁内部で共有され受け継がれていたと(後に)報道される(★)。秋篠宮には出生の問題、紀子妃には出自の問題があり、結婚に至る経緯にも上述のような問題があり、これが一般に明らかになれば、皇位継承者としては認められないためとする見方がある(★)。

■1991年(平成3年)
02月23日 立太子の礼。徳仁親王が正式に皇太子となられる(31歳)。
10月23日 秋篠宮家に長女・眞子内親王誕生。

■1993年(平成5年)
01月06日 ワシントンポストが皇太子殿下の婚約をスクープ
皇太子さまと小和田雅子さんの婚約について海外メディアが最初に報じた。宮内庁から正式発表まで統制がかけられていたが、宮内庁記者クラブに所属しない海外メディアは報道協定に縛られないためスクープ可能だった。これを受けて国内外のメディアが一斉に記事を掲載する。

01月19日 皇室会議
8時30分から19分間行われ、小和田雅子さんを皇太子妃と内定し、記者会見が行われた。

04月12日 納采の儀
06月09日 皇太子徳仁親王(33歳)と小和田雅子さん(29歳)結婚の儀。

 ご結婚当日、雅子さまを紀子妃が鬼の形相で睨みつけていたという目撃証言多数。ご結婚前には「私の十二単をお貸しする」という発言もあり、国民を仰天させた。紀子妃は日本人とは思えない感性を、折々に垣間見せてくださいます。

 「宮中に慣れるため3年は懐妊を控えるように」と、皇太子妃美智子さまのアドバイスがあったと報じられる。(★)
 ご結婚からしばらくの間、すさまじいまでのご公務のスケジュールに、「こんな忙しくて子作りが出来るのか」という記事も書かれた。(★)

■1994年(平成6年)
02月~  雅子さまのご懐妊報道が過熱。

 この年2月に雅子さまの風邪が長引き、その後のお召し物がゆったりしたものであったため、ご懐妊報道が過熱し始める。これを受けて、ご成婚1年目の会見で、皇太子さまは「あまり波風がたつとコウノトリのご機嫌を損ねる」と過熱報道を窘められる。

05月   秋篠宮妃ご懐妊発表。12月に次女・佳子内親王誕生。

■1995年(平成7年)~1999年(平成11年)
海外で雅子さまをめぐる報道が増え始める。
 外交官出身として親善外交での活躍が期待されたが、皇位継承者出産のプレッシャーに押しつぶされているという論調。イタリア紙「沈黙する悲しみの妃」、ニューズウィーク「姿を消したプリンセス」など(★)。

不妊治療を始められたことも報じられる。
 皇太子さまの留守を見計らい、宮内庁幹部が雅子さまを訪問し、生理の周期などご体調に付き詰問することもあったという。(★)

不妊治療を理由に雅子さまの海外訪問が禁じられる。
 男子誕生を優先事項とするため、宮内庁長官により皇太子ご夫妻の海外訪問が禁じられたとの報道があった(★)。故三笠宮寬仁親王と旧皇族子孫の竹田氏は、雅子さまの能力が活かせるご公務をして頂いたほうが精神的充足感もあり、体調も良くなるのではないか。懐妊を理由とした訪問取りやめは外交上失礼ではないので、海外訪問禁足は不要との説を(後に)語っておられる。しかし、千代田側の意向として(すなわち天皇皇后の意向として)、長期にわたり皇太子ご夫妻の海外訪問は禁じられた。
 1997年(平成9年)にはシラク大統領から皇太子ご夫妻へ訪仏の招待があったが、宮内庁(天皇皇后)がこれを許さず、紀宮さまがフランスを訪問している(★)。1999年(平成11年)にはドイツにおける日本年の名誉総裁が皇太子さまであり、皇太子ご夫妻が招待されたが、宮内庁(天皇皇后)がこれを許さず、秋篠宮夫妻がドイツを訪問した(★)。

※資料:「ご成婚から20年間での外遊回数」
 昭和の皇太子ご夫妻  50回以上(正式記録が平成以降のため不正確ながら)
 平成の皇太子ご夫妻   6回 10か国(慶弔訪問含む)
 秋篠宮ご夫妻       25回 29か国(私的海外訪問の多くは含まず)

■1999年(平成11年)
12月   雅子さま妊娠5週目と朝日新聞がスクープ。30日に宮内庁病院にて流産処置。
 胎児の心音が確認できていない5週目という時期のスクープに世間は驚き、憤慨した。ごく限られた人しか知るはずがない内々のことが漏れたことに雅子さまは非常なショックを受けられたという。スクープした記者は紀子妃と特別に親しい関係にある朝日新聞社の岩井克己氏であり、リーク元は紀子妃だった可能性は否定できない。

■2000年(平成12年)
02月   流産処置から2か月で公務に復帰される。
06月16日 香淳皇后崩御。
07月   1か月の殯を経て25日、香淳皇后の斂葬の儀が行われる。

 この間、雅子さまも昼夜交代で棺に付き添われるなどされたが、斂葬の儀当日は体調が悪く欠席されたことが波紋を呼ぶ。しかし、この時実際にはご懐妊の兆候があったため、大事をとる必要があったと後に報じられる(★)。

※天皇の「眞子が女帝に」発言の衝撃
 「このまま東宮家に子が生まれなければ眞子が天皇になるしかない」と天皇が嘆いたという記事が週刊誌に掲載された(★)。皇位継承について、天皇ともあろう方がこのような軽々しい発言をなさったことに驚く。帝王学を学ばれた方の発言とは思えず。おそらくこの失言(非常に重い失言というべき)が紀子妃とそのご実家を舞い上がらせたことは想像に難くない。家長として、不妊に苦しみ苦境に立つご長男夫妻を思いやり、弟夫婦の野望を諫めるのが筋であるのに、お家騒動の火をあおるとは。なんと頼りなく浅慮な家長だろう。
 この失言はまた、天皇が女帝容認であった証拠でもある。天皇は「男でも女でも私の血筋であることに変わりはない」という発言もしておられ(★)、男系男子派から強い批判を受けた。その後こうした発言は控えられたようで、漏れ聞こえることは無くなった。

■2001年(平成13年)
03月   雅子さまに対し海外禁足を敷いた宮内庁長官退官。
     不妊治療のスペシャリストである堤教授が東宮御用掛に就任。
05月   雅子さま(37歳)ご懐妊正式発表。

 小泉首相が、ご誕生までに女性天皇を認める皇室典範改正を提案。与党幹事長も賛意を示し世論調査も歓迎するが、保守系議員と神社界の反発があり、お体に障ってはならないと、議論が鎮静化する(★)。

※ネットに「流産祈願スレ」乱立の怪
 東宮家の慶事をわがことのように喜ぶ国民をよそに、某巨大掲示板には「流産祈願スレ」が乱立。「雅子の腹に蹴りをぶっこいてくるのよ」といった信じがたい暴言の数々が日夜書き込まれた。
 御子の性別も不明なときであり、男系男子派の仕業ではありえない。「東宮家による皇位継承」という当然のことを阻止しようとする勢力の仕業であり、それによって誰が利を得るかを考えれば、紀子妃とそのご実家という見立ては成り立ち得る(★)。
 ネットで東宮家をバッシングする「アンチ東宮」と呼ばれる人々の毒々しいデビューであるが、彼らは紀子妃とそのお子さまたちを「お美しい」「ご優秀」と盛大に持ち上げる特徴をもつ。秋篠宮についてはさほど称賛するわけでもない。

12月01日 皇太子ご夫妻の第一子、敬宮愛子内親王殿下ご誕生。

 皇室最高齢の高松宮喜久子妃殿下が『婦人公論』1月22号に寄稿される。「女性が第127代天皇さまとして御即位あそばすことは日本の長い歴史に鑑みて決して不自然なことではない」--多くの国民も同じ思いだった。

※愛子さまご誕生を祝う記帳に77万人
 12月2日夕刻にもかかわらず、「新宮さまのご誕生をお祝いする国民の集い」には2万5千人以上が集まる。皇居および宮内庁が管理する施設での記帳12万人。宮内庁は記帳に訪れる人が多いため、記帳所を増やし、記帳時間を延長して対応。全国自治体、神社、大使館関係は65万人。

※第2子(男子)懐妊の至上命令
 こうした一般国民の大歓迎をよそに、ご出産間もない雅子さまのベッドサイドを訪れた宮内庁幹部は、「これで、お子さまが授かれることは証明できたので、次こそは男子を」と詰め寄ったと報じられている(★)。天皇皇后の意向を伝えたものであることは自明である。長い不妊治療の末にようやく御子を授かったばかりの雅子さまの心身は、「男子限定懐妊の強要」に耐えうる状態ではなかったはず。なぜ、そのような心無い仕打ちができるのか。皇后さまの代名詞のような”慈愛”はどこに?
 このとき「もし男子懐妊治療を拒むなら秋篠宮夫妻に依頼する」「秋篠宮家に男子が誕生すれば皇統は秋篠宮家に移るがそれでよいか」と迫られたであろうことは、状況証拠とともに前トピックで述べた。女帝容認であったはずの天皇が、なぜここまで東宮ご夫妻に男児懐妊を強要されたのか? 国民の圧倒的多数は、愛子さま誕生を「女帝誕生」として大喜びしていたのにもかかわらず。

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