井上毅という人物
第1回コラムに記しましたように、遅くとも「皇室制規」の段階までは、伊藤博文らも男系主義を原則としつつも、女性天皇および女系天皇を認める考えでした。それを、「謹具意見」という意見書の提出で覆したのが、井上毅です。そもそも、この人物はどのような経歴を辿っていたのでしょうか?
井上は1844年、熊本藩家老の家臣の子として生まれました。藩主の直接の家臣ではありません。天皇から見れば臣下の臣下のそのまた臣下という下級武士のなかでも異色の出身です。幼児から神童と言われ、藩校で学ぶことを許され、江戸長崎に遊学し、開成学校(東京大学の前身)を経て司法省に奉職します。そして、1872年にフランス、ドイツに学び、大陸法(独墺仏圏の法)を修め帰国します。自分から、能力を売り込む力にも長じており、当時の最高権力者だった大久保利通の清国との交渉に際し、意見を提出し認められ、出世への糸口をつかみます。
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▲女性天皇・女系天皇を認める伊藤博文らの考えを「謹具意見」提出で覆した井上毅
大久保暗殺後は、岩倉具視や伊藤博文らに接触を図り、頭角を現します。詳しくは、4回目以降で述べますが、大隈重信らを追放し、同時に政府内から福沢諭吉の見解に近い人物らも排除した明治14年(1881年)の政変の立役者でもあり、権謀術数にも長けていました。英国型立憲君主制を忌避し、プロイセン型の政府が議会に優越する欽定憲法の制定を目指す方針を明確にしたのも井上です。では、そのような経歴を有する井上がなぜ、男系男子主義に固執したのでしょうか?
井上の「男系男子主義」の論拠
井上が上記「謹具意見」を提出した背景事情として、民間の政治結社における演説会、とりわけ島田三郎らの「女帝否定論」が引き合いに出されるのが常です。しかし、井上は他人の意見にただ乗りするような安易な人間ではありません。井上が中心となって起草した「皇室典範義解」、「ロエスレルへの照会内容」、「女帝考」をはじめとする彼独自の調査資料等を踏まえると、彼が男系男子主義に拘ったのはおおむね以下の理由によると考えられます。
(1) 皇統皇位の承継は神武天皇以来、全て男系承継であったという事実。
(2) 女性天皇は、事実上摂政など「中継ぎの」地位にあり、先例にすべきでないこと。
(3) たとえ、皇統から分かれた氏族であっても、女帝の皇配が臣籍であれば、その子は「異姓」となり、皇統が断絶すること。
(4) 英国でも皇婿を迎えることにより、王朝が断絶していること。
(5) 欧州にも、男系男子主義を採用する帝国、王室があり、そうした国では祖法は変更されていないこと。
(6) 女性は男性に比して政務能力が劣ること。
井上の論拠への反論
「(1) 皇統皇位の承継は神武天皇以来、全て男系承継であった」の論拠について
当時は、記紀に記された事実を真実と信じることを出発点としていましたから、この主張も成り立ちえました。しかし、現代の古代史学や考古学では、異説はあるものの、神武から開化までの9代の天皇の実在を否定するのが通説であり、①崇神天皇から実在が確認される応神天皇までの実在を認める説と、③応神天皇以前の実在を疑問視する見解に分かれています。
また、上記2説のいずれも継体天皇が応神5世の孫であるとする記紀の記述を疑問視しており、継体天皇は前王朝の血を引く、手白髪皇女を皇后とし、欽明天皇をもうけたことで前王朝と血統的に繋がったと理解するのが主流です。つまり、継体・欽明両天皇に関する限り、前王朝との結びつきは「女系承継」によりなされたと評価するのが自然です。
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▲第25代武烈には嫡子がなかったため、継体は武烈の姉である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とすることを条件に、いわば婿入りする形で、第26代天皇となったとされる。
なお、現皇統の開基である光格天皇の即位についても、女系承継の観念を見ることができますが、この点は別の機会に論じることにします。
「(2) 女性天皇は、事実上摂政など「中継ぎの」地位にあり、先例にすべきでない」の論拠について
この論拠は、戦後古代史の大家であった井上光貞博士がこれに近い見解を採用されたこともあり、現在でも有力です。しかしながら、奈良時代、とりわけ元明天皇と元正天皇については、両天皇を聖武天皇即位までの中継ぎと見るのは無理があるとの主張が現在ではむしろ強まってきています。
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▲元明天皇と元正天皇:阿閉皇女(あべのひめみこ:後の元明天皇)は天武天皇の皇太子だった草壁皇子の正妃として結婚、氷高皇女(後の元正天皇)や珂瑠皇子(後の文武天皇)等をもうけるが、草壁皇子は即位せぬまま薨去。草壁皇子の母である持統天皇が即位し、その後に珂瑠皇子が即位(文武天皇)した。しかし、文武天皇が25歳の若さで崩御したため、母である阿閉皇女が即位(元明天皇)。藤原京から平城京への遷都、古事記編纂、郷里制の制定等を行い、即位8年目にして氷高皇女に譲位(元正天皇)した。
さらに、明正天皇については、後陽成天皇以来の徳川幕府と朝廷との緊張関係が背後にあり、徳川氏を外戚にさせないため、幕府にも秘密で後水尾天皇が江戸時代を通じて唯一の嫡出の天皇である明正天皇に譲位され、同女帝の婚姻を許さないことになさったうえで、「禁中並びに公家諸法度」の規制が及ばない上皇の地位につかれ、多くの皇子をもうけられたと見るのが現在の史学界における通説的理解であり、幕府と朝廷の抗争の犠牲者と理解するのが自然です。「皇子誕生までの中継ぎ」と評価するのは困難です。
その上、井上毅は従前の皇統譜では明確に15代天皇と認められていた神宮皇后と、古事記の写本の一部や扶桑略記などで女帝と認められている飯豊尊を、共に「摂政」であると決めつけており、神話の改変および歴史の修正を行っています。それゆえ、この論拠も脆弱で、今日維持することは困難です。
(3) および(4) の論拠については、井上が、①皇族の範囲の問題と、②中国における「宗族」の原理と、③わが国の氏、姓、名字の差、および④欧米における王家の家名の問題を混同したところに起因した誤解であると考えられます。以下、説明します。
「(3) 皇統から分かれた氏族であっても、女帝の皇配が臣籍であればその子は「異姓」となり、皇統が断絶する」の論拠について
確かに、かつての中国では、厳格な男系承継原理に貫かれた宗族原理が存在し、それを担保するために同姓不婚(厳密には同宗、以下同)と異姓(異宗)不養という規範が存在しました。そして、これには「気」という漢族独特の概念が背景にあります(レヴィ=ストロースが指摘したような交換の原理も存在します)。
こうした原理が作用する漢族では、同一祖先から分かれた男子孫は2500年を経ても同一宗族であるという観念が成り立ちえます。翻って日本では、古来より皇族相互間の婚姻や皇子の摂関家への養子などが問題なくなされており、同宗不婚原則も異宗不養原則もどちらも存在しません。要するに中国とは明確に異質です。宗族についても、これに相当する概念は日本にはありません。あえて近いものを挙げるならば、下記の「氏族」集団ということになりましょう。
むしろ、井上が問題視しているのは、たとえ皇統から分かれた同一氏族であっても、すでに臣籍降下したものが女帝の配偶となるのはふさわしくないということだと思われます。しかし、たとえ「源姓」であっても、直近の皇統から分かれた氏族の出身者であれば、「男系」承継という点では何ら問題ないはずです。だからこそ皇室制規13条はかかる規定を設けたのです。井上は、今日支配的な「男系論者」とは異なるスタンスをとっていることが伺えます。
実は井上は、ロエスレルと相談して、三条実美公や柳原前光、さらには明治天皇の意向に反して、「永世皇族主義」を採用するに至るのですが、その点について、周到にも二つの留保をつけています。一つ目は、①王の配偶は皇族か特定の華族に限られること。もう一つは、②婚姻には勅許を要すること。この2点です。
井上は、永世皇族主義を上記の厳しい条件のもと採用したうえで、仮に皇統の断絶の危機があった時は、事実上皇族を内親王に入り婿させる形(光格天皇のような形式)により対応しようとしていたとも考えられるのです。少なくとも井上は、一度臣籍降下した者が皇婿となることは想定していませんでした。今日では、井上の資格を満たす若い世代の皇族はいらっしゃいませんから、(3)の見解も今日では維持し難いです。
「(4) 英国でも皇婿を迎えることにより、王朝が断絶している」の論拠について
この点は、井上毅が、一部の学者の著作を利用して、英国史を意図的に曲解した形で伊藤らに報告しているものと考えられます。以下、理由を述べます。
まず、周知のとおり、英国は複数の王国の連合体であり、しかも1066年のノルマン朝による征服以来、基本的に異民族王朝により、イングランド王国は支配されてきました。ノルマン朝とプランタジネット朝はフランス系ですし、ランカスター朝とヨーク朝はプランタジネット朝の分家です。エリザベスⅠ世を生んだテューダー朝はウェールズ系ですし、彼女の姉であるメアリ1世はフェリペ2世と結婚後も家名は改めず、統治権も喪失していません。
これに続く、ステュアート朝はスコットランド系ですし、オランダ王ウィリアムの共同統治者となったメアリ2世も家名や統治権を喪失していません(厳密には、メアリ2世の任意により、夫ウイリアム3世がロンドン在住中は、自らが統治権を有していることを前提に、統治権を委任する建前でしたが、ウイリアム3世は外征のためほとんど不在であり、実際にはメアリ2世が英国を統治していました。政治的手腕もあったとされます)。デンマーク王子と婚姻したアン女王はそもそも統治権の委任すら行わず、文字通りの単独統治者でいらっしゃいました。ハノーヴァー朝はドイツ系であり、ヴィクトリア女王はアルバート公と婚姻後も、家名を改めず、財産管理、統治権も従来のままでした。
確かに、同女王の息子であるエドワード7世(在位1901-1910)のときに、父方のサックス・コーバーグ・ゴータ家に家名を改めていますが、1917年には血統は同じなのに、ウインザー家に家名を変更しています。さらに姓もウインザーと定めています(家名と姓の区別については長くなりますので省略します)。要するに、欧州では家名=氏族ではないのです。これはカペー家による男系男子承継が続いたフランスでもしばしば家名が変更されていることからも明らかです。
ちなみに、現エリザベス2世陛下の皇婿殿下フィリップ王子はデンマーク王家の血を引く、ギリシャ王家の出身でいらっしゃいますが、ご成婚に先立ち、英国に帰化され、デンマーク王子、ギリシャ王子の地位を放棄され、ギリシャ正教会から英国国教会に改宗され、姓も英国風の「マウントバッテン」に改めておられます。
さらに、女王陛下は1952年の即位時に、女王陛下ご自身はもとより、ご自身の後継者である殿下(Royal Highness)の敬称保持者、および王子(Prince)、王女(Princess)には引き続き、ウインザー家を家名とさせる旨を定めておられます。
ちなみに、1960年の枢密院令を根拠に、エリザベス女王陛下とフィリップ王子の間の子はマウントバッテン=ウインザーの姓を名乗ると伝えられることもありますが、上記宣言が優越するため、王族としての称号を有する者は家名も姓もウインザーのままであると理解するのが一般的解釈です。いずれにしても女王陛下の王位を継がれる方は引き続き家名をウインザーとなさいますので、王朝名も変わりません
このように、英国の王朝名の変化は、単なる婚姻によるものではなく、王室構成員の民族的出自の変化、戦争による国民感情への対応など複雑な要因が絡んでおり、「女王が婚姻すると王朝が交代する」というような単純なものではありません。それゆえ、この点も論拠になっておりません。
「(5) 欧州にも男系男子主義を採用する帝国・室があり、そうした国では祖法は変更されていない」の論拠について
確かに当時の主要な欧米君主国の中で、ベルギー、プロイセン、サリカ法の母国であるフランス王朝・帝政、同じくサリカ法を採用していたイタリア、北欧でもスゥエーデンなどが明確に男系男子主義を採用しており、とりわけ立憲君主政体のモデルとされたベルギーでは憲法60条で「女子及び女系は永久に王位継承権を排除される」旨明記していました。
ところが、上記諸国のうち、プロイセン(ドイツ帝国)、フランス、イタリアでは共和制に移行し、ベルギーでは憲法を改正し、直系長系第一子主義を採用するに至っています。スェーデンも同様で、次代と次々代はいずれも女王となることが確定しています。
「(6) 女性は男性に比して政務能力が劣る」の論拠について
この論拠は、すでにロエスレルへの諮問の際に同氏より一蹴され、問題にもされていません。かえってロエスレルは、「男系優先は構わないが、男系が絶えた時には、女系承継も認める余地を残すべきである」旨、助言したのですが、あくまでも井上は男系男子主義に固執しました。
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▲ヘルマン・ロエスレル:ドイツの法学者で1878年に外務省の公法顧問として来日。内閣顧問となり、伊藤博文の信任を得て「日本帝国憲法草案」を起草した。
以上のように、井上の「男系男子主義」は論拠に乏しく、日本の伝統との整合性にも重大な疑念があり、むしろ、井上らにより「新たに創設された皇位承継準則」であると考えるのが妥当です。
なぜ、井上はここまで「男系男子主義」に固執したのか?
その後の井上
井上は、抜群の切れ者であり、膨大な読書家でもあり、私心のために政策を歪めるような小人では決してありません。その彼が、ロエスレルの真摯な憂慮を振り切ってまで、これほど男系男子主義に拘ったのでしょうか? その後の彼の行動を見ると、彼の真意が浮かび上がってきます。
彼は、内閣法制局長官や枢密院書記官長等の要職を歴任し、ついに文部大臣になり、子爵にまで昇進します。陪臣のそのまた陪臣の子が、ついに華族になったのです。そこまでに至る彼の仕事量はまさに超人的でした。主なものを掲げるだけでも、「大日本帝国憲法及び皇室典範の起草」「教育勅語の実質的な起草」「軍人勅諭起草への関与」「議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、市制・町村制など憲法関連法令の整備」「文部大臣として、女子教育制度を整えること」等です。近代日本内政の大枠は彼が作り上げたと評しても過言ではありません。
奇妙な一致
しかし、彼の一連の行動には奇妙な一致が見えます。
①帝国憲法、皇室典範における男系男子主義の採用。
②教育勅語の公定解釈書における「妻の夫への服従義務の強調」。
③ワイオミング州(1869年)、ユタ準州(1870年)で婦人選挙権が認められ、英国でもJ.S.ミル等の努力もあり、1869年には市町村レベルでは婦人選挙権が認められ、それに先立つ1857年には離婚法が成立し、1870年代には妻の財産権も一定限度で保護されるようになっていたのに、これらの動きを無視するように、衆議院選挙はもちろん、市町村レベルでも婦人参政権(被選挙権はもとより、選挙権も)を一切否定したこと。
④貴族院皇族議員や勅任議員も明文で男子に限ったこと。
⑤政治結社への女性の加入および女性の政治集会傍聴を、彼が原案起草に参画したとされる集会及び結社法(3条、4条1項、25条)で禁止したこと(この規制は後の治安警察法5条1項、2項(2項は大正期に改正される)に継承されます)。および実現しなかったものの、一時期は衆議院規則を改正し、女性の衆議院傍聴まで禁じようとしたこと。
ちなみに、直接井上は関わっていませんが、上記法制上の沿革が影響し、男子普通選挙法(大正14年、1925年)に先立つ(大正12年、1923年)公布の陪審法でも、陪審員の資格は男子に限られました(同法12条1項1号)。
⑥井上が文部大臣時代に大要を決したカリキュラムにより、女学校では自然科学、語学、社会科学等の単位数が少なく抑えられ、代わりに修身教育と裁縫教育に十分すぎるほどの時間が割かれたこと。すなわち「良妻賢母教育」が女子教育の主眼とされたこと。
以上要するに、井上の一連の行動は「政治社会からの女性の徹底排除」という点で共通しているのです。
結びに代えて
井上毅という人物は、日本人離れしたところがあります。官僚・学者・思想家・政治家いずれの枠内にも収まり切りません。高い法学の素養と語学力、膨大な読書量、権謀術数にも長けていたこと、内閣法制局という強大な官僚機構を創出し支配する能力、厳しい克己心、一方で伊藤らにも妥協しない絶対的な自信と徹底性、自分と異なる考えに対する非寛容と攻撃性(彼の匿名論文を読むと、敵対する立場に対する揶揄的表現や見下した表現が目につきます)などを重視すると、ジュネーブで新教徒のローマを作り上げようとした宗教改革者ジャン・カルヴァンや、人類の理想郷を創出しようとしたウラジミール・レーニンに近いのかもしれません。
彼が作り上げた大日本帝国体制は実質55年間で、敗戦により崩壊しますが、「あるべき日本の姿」を、記紀の「シラス」の概念に見出そうとした英明な彼が、どうしてここまで女性の政治からの排除に執着したのでしょうか? やはり謎として残ります。
次回の課題
そこで、次回は井上毅が強く影響を受けたと考えられている「後期水戸学派」について、検討してみたいと存じます。冗長なる駄文、悪しからずご容赦くださいませ。
(執筆:The White Rose)
第1回コラムに記しましたように、遅くとも「皇室制規」の段階までは、伊藤博文らも男系主義を原則としつつも、女性天皇および女系天皇を認める考えでした。それを、「謹具意見」という意見書の提出で覆したのが、井上毅です。そもそも、この人物はどのような経歴を辿っていたのでしょうか?
井上は1844年、熊本藩家老の家臣の子として生まれました。藩主の直接の家臣ではありません。天皇から見れば臣下の臣下のそのまた臣下という下級武士のなかでも異色の出身です。幼児から神童と言われ、藩校で学ぶことを許され、江戸長崎に遊学し、開成学校(東京大学の前身)を経て司法省に奉職します。そして、1872年にフランス、ドイツに学び、大陸法(独墺仏圏の法)を修め帰国します。自分から、能力を売り込む力にも長じており、当時の最高権力者だった大久保利通の清国との交渉に際し、意見を提出し認められ、出世への糸口をつかみます。

▲女性天皇・女系天皇を認める伊藤博文らの考えを「謹具意見」提出で覆した井上毅
大久保暗殺後は、岩倉具視や伊藤博文らに接触を図り、頭角を現します。詳しくは、4回目以降で述べますが、大隈重信らを追放し、同時に政府内から福沢諭吉の見解に近い人物らも排除した明治14年(1881年)の政変の立役者でもあり、権謀術数にも長けていました。英国型立憲君主制を忌避し、プロイセン型の政府が議会に優越する欽定憲法の制定を目指す方針を明確にしたのも井上です。では、そのような経歴を有する井上がなぜ、男系男子主義に固執したのでしょうか?
井上の「男系男子主義」の論拠
井上が上記「謹具意見」を提出した背景事情として、民間の政治結社における演説会、とりわけ島田三郎らの「女帝否定論」が引き合いに出されるのが常です。しかし、井上は他人の意見にただ乗りするような安易な人間ではありません。井上が中心となって起草した「皇室典範義解」、「ロエスレルへの照会内容」、「女帝考」をはじめとする彼独自の調査資料等を踏まえると、彼が男系男子主義に拘ったのはおおむね以下の理由によると考えられます。
(1) 皇統皇位の承継は神武天皇以来、全て男系承継であったという事実。
(2) 女性天皇は、事実上摂政など「中継ぎの」地位にあり、先例にすべきでないこと。
(3) たとえ、皇統から分かれた氏族であっても、女帝の皇配が臣籍であれば、その子は「異姓」となり、皇統が断絶すること。
(4) 英国でも皇婿を迎えることにより、王朝が断絶していること。
(5) 欧州にも、男系男子主義を採用する帝国、王室があり、そうした国では祖法は変更されていないこと。
(6) 女性は男性に比して政務能力が劣ること。
井上の論拠への反論
「(1) 皇統皇位の承継は神武天皇以来、全て男系承継であった」の論拠について
当時は、記紀に記された事実を真実と信じることを出発点としていましたから、この主張も成り立ちえました。しかし、現代の古代史学や考古学では、異説はあるものの、神武から開化までの9代の天皇の実在を否定するのが通説であり、①崇神天皇から実在が確認される応神天皇までの実在を認める説と、③応神天皇以前の実在を疑問視する見解に分かれています。
また、上記2説のいずれも継体天皇が応神5世の孫であるとする記紀の記述を疑問視しており、継体天皇は前王朝の血を引く、手白髪皇女を皇后とし、欽明天皇をもうけたことで前王朝と血統的に繋がったと理解するのが主流です。つまり、継体・欽明両天皇に関する限り、前王朝との結びつきは「女系承継」によりなされたと評価するのが自然です。

▲第25代武烈には嫡子がなかったため、継体は武烈の姉である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とすることを条件に、いわば婿入りする形で、第26代天皇となったとされる。
なお、現皇統の開基である光格天皇の即位についても、女系承継の観念を見ることができますが、この点は別の機会に論じることにします。
「(2) 女性天皇は、事実上摂政など「中継ぎの」地位にあり、先例にすべきでない」の論拠について
この論拠は、戦後古代史の大家であった井上光貞博士がこれに近い見解を採用されたこともあり、現在でも有力です。しかしながら、奈良時代、とりわけ元明天皇と元正天皇については、両天皇を聖武天皇即位までの中継ぎと見るのは無理があるとの主張が現在ではむしろ強まってきています。

▲元明天皇と元正天皇:阿閉皇女(あべのひめみこ:後の元明天皇)は天武天皇の皇太子だった草壁皇子の正妃として結婚、氷高皇女(後の元正天皇)や珂瑠皇子(後の文武天皇)等をもうけるが、草壁皇子は即位せぬまま薨去。草壁皇子の母である持統天皇が即位し、その後に珂瑠皇子が即位(文武天皇)した。しかし、文武天皇が25歳の若さで崩御したため、母である阿閉皇女が即位(元明天皇)。藤原京から平城京への遷都、古事記編纂、郷里制の制定等を行い、即位8年目にして氷高皇女に譲位(元正天皇)した。
さらに、明正天皇については、後陽成天皇以来の徳川幕府と朝廷との緊張関係が背後にあり、徳川氏を外戚にさせないため、幕府にも秘密で後水尾天皇が江戸時代を通じて唯一の嫡出の天皇である明正天皇に譲位され、同女帝の婚姻を許さないことになさったうえで、「禁中並びに公家諸法度」の規制が及ばない上皇の地位につかれ、多くの皇子をもうけられたと見るのが現在の史学界における通説的理解であり、幕府と朝廷の抗争の犠牲者と理解するのが自然です。「皇子誕生までの中継ぎ」と評価するのは困難です。
その上、井上毅は従前の皇統譜では明確に15代天皇と認められていた神宮皇后と、古事記の写本の一部や扶桑略記などで女帝と認められている飯豊尊を、共に「摂政」であると決めつけており、神話の改変および歴史の修正を行っています。それゆえ、この論拠も脆弱で、今日維持することは困難です。
(3) および(4) の論拠については、井上が、①皇族の範囲の問題と、②中国における「宗族」の原理と、③わが国の氏、姓、名字の差、および④欧米における王家の家名の問題を混同したところに起因した誤解であると考えられます。以下、説明します。
「(3) 皇統から分かれた氏族であっても、女帝の皇配が臣籍であればその子は「異姓」となり、皇統が断絶する」の論拠について
確かに、かつての中国では、厳格な男系承継原理に貫かれた宗族原理が存在し、それを担保するために同姓不婚(厳密には同宗、以下同)と異姓(異宗)不養という規範が存在しました。そして、これには「気」という漢族独特の概念が背景にあります(レヴィ=ストロースが指摘したような交換の原理も存在します)。
こうした原理が作用する漢族では、同一祖先から分かれた男子孫は2500年を経ても同一宗族であるという観念が成り立ちえます。翻って日本では、古来より皇族相互間の婚姻や皇子の摂関家への養子などが問題なくなされており、同宗不婚原則も異宗不養原則もどちらも存在しません。要するに中国とは明確に異質です。宗族についても、これに相当する概念は日本にはありません。あえて近いものを挙げるならば、下記の「氏族」集団ということになりましょう。
むしろ、井上が問題視しているのは、たとえ皇統から分かれた同一氏族であっても、すでに臣籍降下したものが女帝の配偶となるのはふさわしくないということだと思われます。しかし、たとえ「源姓」であっても、直近の皇統から分かれた氏族の出身者であれば、「男系」承継という点では何ら問題ないはずです。だからこそ皇室制規13条はかかる規定を設けたのです。井上は、今日支配的な「男系論者」とは異なるスタンスをとっていることが伺えます。
実は井上は、ロエスレルと相談して、三条実美公や柳原前光、さらには明治天皇の意向に反して、「永世皇族主義」を採用するに至るのですが、その点について、周到にも二つの留保をつけています。一つ目は、①王の配偶は皇族か特定の華族に限られること。もう一つは、②婚姻には勅許を要すること。この2点です。
井上は、永世皇族主義を上記の厳しい条件のもと採用したうえで、仮に皇統の断絶の危機があった時は、事実上皇族を内親王に入り婿させる形(光格天皇のような形式)により対応しようとしていたとも考えられるのです。少なくとも井上は、一度臣籍降下した者が皇婿となることは想定していませんでした。今日では、井上の資格を満たす若い世代の皇族はいらっしゃいませんから、(3)の見解も今日では維持し難いです。
「(4) 英国でも皇婿を迎えることにより、王朝が断絶している」の論拠について
この点は、井上毅が、一部の学者の著作を利用して、英国史を意図的に曲解した形で伊藤らに報告しているものと考えられます。以下、理由を述べます。
まず、周知のとおり、英国は複数の王国の連合体であり、しかも1066年のノルマン朝による征服以来、基本的に異民族王朝により、イングランド王国は支配されてきました。ノルマン朝とプランタジネット朝はフランス系ですし、ランカスター朝とヨーク朝はプランタジネット朝の分家です。エリザベスⅠ世を生んだテューダー朝はウェールズ系ですし、彼女の姉であるメアリ1世はフェリペ2世と結婚後も家名は改めず、統治権も喪失していません。
これに続く、ステュアート朝はスコットランド系ですし、オランダ王ウィリアムの共同統治者となったメアリ2世も家名や統治権を喪失していません(厳密には、メアリ2世の任意により、夫ウイリアム3世がロンドン在住中は、自らが統治権を有していることを前提に、統治権を委任する建前でしたが、ウイリアム3世は外征のためほとんど不在であり、実際にはメアリ2世が英国を統治していました。政治的手腕もあったとされます)。デンマーク王子と婚姻したアン女王はそもそも統治権の委任すら行わず、文字通りの単独統治者でいらっしゃいました。ハノーヴァー朝はドイツ系であり、ヴィクトリア女王はアルバート公と婚姻後も、家名を改めず、財産管理、統治権も従来のままでした。
確かに、同女王の息子であるエドワード7世(在位1901-1910)のときに、父方のサックス・コーバーグ・ゴータ家に家名を改めていますが、1917年には血統は同じなのに、ウインザー家に家名を変更しています。さらに姓もウインザーと定めています(家名と姓の区別については長くなりますので省略します)。要するに、欧州では家名=氏族ではないのです。これはカペー家による男系男子承継が続いたフランスでもしばしば家名が変更されていることからも明らかです。
ちなみに、現エリザベス2世陛下の皇婿殿下フィリップ王子はデンマーク王家の血を引く、ギリシャ王家の出身でいらっしゃいますが、ご成婚に先立ち、英国に帰化され、デンマーク王子、ギリシャ王子の地位を放棄され、ギリシャ正教会から英国国教会に改宗され、姓も英国風の「マウントバッテン」に改めておられます。
さらに、女王陛下は1952年の即位時に、女王陛下ご自身はもとより、ご自身の後継者である殿下(Royal Highness)の敬称保持者、および王子(Prince)、王女(Princess)には引き続き、ウインザー家を家名とさせる旨を定めておられます。
ちなみに、1960年の枢密院令を根拠に、エリザベス女王陛下とフィリップ王子の間の子はマウントバッテン=ウインザーの姓を名乗ると伝えられることもありますが、上記宣言が優越するため、王族としての称号を有する者は家名も姓もウインザーのままであると理解するのが一般的解釈です。いずれにしても女王陛下の王位を継がれる方は引き続き家名をウインザーとなさいますので、王朝名も変わりません
このように、英国の王朝名の変化は、単なる婚姻によるものではなく、王室構成員の民族的出自の変化、戦争による国民感情への対応など複雑な要因が絡んでおり、「女王が婚姻すると王朝が交代する」というような単純なものではありません。それゆえ、この点も論拠になっておりません。
「(5) 欧州にも男系男子主義を採用する帝国・室があり、そうした国では祖法は変更されていない」の論拠について
確かに当時の主要な欧米君主国の中で、ベルギー、プロイセン、サリカ法の母国であるフランス王朝・帝政、同じくサリカ法を採用していたイタリア、北欧でもスゥエーデンなどが明確に男系男子主義を採用しており、とりわけ立憲君主政体のモデルとされたベルギーでは憲法60条で「女子及び女系は永久に王位継承権を排除される」旨明記していました。
ところが、上記諸国のうち、プロイセン(ドイツ帝国)、フランス、イタリアでは共和制に移行し、ベルギーでは憲法を改正し、直系長系第一子主義を採用するに至っています。スェーデンも同様で、次代と次々代はいずれも女王となることが確定しています。
「(6) 女性は男性に比して政務能力が劣る」の論拠について
この論拠は、すでにロエスレルへの諮問の際に同氏より一蹴され、問題にもされていません。かえってロエスレルは、「男系優先は構わないが、男系が絶えた時には、女系承継も認める余地を残すべきである」旨、助言したのですが、あくまでも井上は男系男子主義に固執しました。

▲ヘルマン・ロエスレル:ドイツの法学者で1878年に外務省の公法顧問として来日。内閣顧問となり、伊藤博文の信任を得て「日本帝国憲法草案」を起草した。
以上のように、井上の「男系男子主義」は論拠に乏しく、日本の伝統との整合性にも重大な疑念があり、むしろ、井上らにより「新たに創設された皇位承継準則」であると考えるのが妥当です。
なぜ、井上はここまで「男系男子主義」に固執したのか?
その後の井上
井上は、抜群の切れ者であり、膨大な読書家でもあり、私心のために政策を歪めるような小人では決してありません。その彼が、ロエスレルの真摯な憂慮を振り切ってまで、これほど男系男子主義に拘ったのでしょうか? その後の彼の行動を見ると、彼の真意が浮かび上がってきます。
彼は、内閣法制局長官や枢密院書記官長等の要職を歴任し、ついに文部大臣になり、子爵にまで昇進します。陪臣のそのまた陪臣の子が、ついに華族になったのです。そこまでに至る彼の仕事量はまさに超人的でした。主なものを掲げるだけでも、「大日本帝国憲法及び皇室典範の起草」「教育勅語の実質的な起草」「軍人勅諭起草への関与」「議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、市制・町村制など憲法関連法令の整備」「文部大臣として、女子教育制度を整えること」等です。近代日本内政の大枠は彼が作り上げたと評しても過言ではありません。
奇妙な一致
しかし、彼の一連の行動には奇妙な一致が見えます。
①帝国憲法、皇室典範における男系男子主義の採用。
②教育勅語の公定解釈書における「妻の夫への服従義務の強調」。
③ワイオミング州(1869年)、ユタ準州(1870年)で婦人選挙権が認められ、英国でもJ.S.ミル等の努力もあり、1869年には市町村レベルでは婦人選挙権が認められ、それに先立つ1857年には離婚法が成立し、1870年代には妻の財産権も一定限度で保護されるようになっていたのに、これらの動きを無視するように、衆議院選挙はもちろん、市町村レベルでも婦人参政権(被選挙権はもとより、選挙権も)を一切否定したこと。
④貴族院皇族議員や勅任議員も明文で男子に限ったこと。
⑤政治結社への女性の加入および女性の政治集会傍聴を、彼が原案起草に参画したとされる集会及び結社法(3条、4条1項、25条)で禁止したこと(この規制は後の治安警察法5条1項、2項(2項は大正期に改正される)に継承されます)。および実現しなかったものの、一時期は衆議院規則を改正し、女性の衆議院傍聴まで禁じようとしたこと。
ちなみに、直接井上は関わっていませんが、上記法制上の沿革が影響し、男子普通選挙法(大正14年、1925年)に先立つ(大正12年、1923年)公布の陪審法でも、陪審員の資格は男子に限られました(同法12条1項1号)。
⑥井上が文部大臣時代に大要を決したカリキュラムにより、女学校では自然科学、語学、社会科学等の単位数が少なく抑えられ、代わりに修身教育と裁縫教育に十分すぎるほどの時間が割かれたこと。すなわち「良妻賢母教育」が女子教育の主眼とされたこと。
以上要するに、井上の一連の行動は「政治社会からの女性の徹底排除」という点で共通しているのです。
結びに代えて
井上毅という人物は、日本人離れしたところがあります。官僚・学者・思想家・政治家いずれの枠内にも収まり切りません。高い法学の素養と語学力、膨大な読書量、権謀術数にも長けていたこと、内閣法制局という強大な官僚機構を創出し支配する能力、厳しい克己心、一方で伊藤らにも妥協しない絶対的な自信と徹底性、自分と異なる考えに対する非寛容と攻撃性(彼の匿名論文を読むと、敵対する立場に対する揶揄的表現や見下した表現が目につきます)などを重視すると、ジュネーブで新教徒のローマを作り上げようとした宗教改革者ジャン・カルヴァンや、人類の理想郷を創出しようとしたウラジミール・レーニンに近いのかもしれません。
彼が作り上げた大日本帝国体制は実質55年間で、敗戦により崩壊しますが、「あるべき日本の姿」を、記紀の「シラス」の概念に見出そうとした英明な彼が、どうしてここまで女性の政治からの排除に執着したのでしょうか? やはり謎として残ります。
次回の課題
そこで、次回は井上毅が強く影響を受けたと考えられている「後期水戸学派」について、検討してみたいと存じます。冗長なる駄文、悪しからずご容赦くださいませ。
(執筆:The White Rose)